ゆるい思想

脳ミソからケツまでイった男の雑記

金と人間性


詐欺という言葉を使ってしまえば意地悪かも知れないが、事実を前に、そのような施設で働く人間には誇りや人間性をある程度失ってしまったものだと思ってしまうのも無理はない。
少し考えてみれば、教師としての熱がどこか逸れたものになっているのは誰にでも理解できる。矛盾してしまうようで難しいが、一個に誇りはある。その誇りと熱意が噛み合っていない事に疑問を持っていた。


偽物だった。出題形式も、難度もまるで別物なのに誰も気が付かないのは、ここはそれを受けさせている高校を出た人間の行く場所ではない事の確認と答え合わせでしかなかった。こんなもので高い金を払わせ、堂々と履歴書に書かせようとしている人間の話す言葉は信用できる訳がない。
彼らがどう思っているかは言うまでもないが、それを差し引いても彼らを良いように思うことは絶対にできない。確かに言うべきことを上手いこと織り交ぜてはいても、一種の諦めのような感情を放出している理由としてビジネスと分かっているからだと言ってしまえばそうなんだろう。


ある人から見れば、ある人からすればこんなもんだろと思っているだろうが、俺はそうじゃなかった。もっとまともだと思ってた。どこの専門学校へ行っても倍以上自分でやらなければ話にならないのは常識と知っていたが、この場所は異常過ぎる。やってる事が幼稚園レベル。いや誇張表現じゃなく、本気で。下手しなくても幼稚園児扱いより酷いもので、その扱われている奴らの年齢が年齢なだけに、社会では幼稚園児よりタチの悪いものとなっているだろう。

こんな施設、頭の悪い高校を出てさっさと就職せずに猶予を延ばした奴の受け皿、負け組の溜まり場以外に当てはまる言葉が一切ない。勿論経歴を見れば俺もその一員なのは間違いない。悔しい、ひたすら悔しい。


ただ、社会に淘汰されて再スタートを切ろうとしている人間の喋る言葉は違う。彼らも一概にはその負け組なのかも知れないが、少なくともこの場所では周りに巻き込まれたら終わるという精神があると主張してくれる時点で違う。勿論高卒にも真面目だったりセンスが突き抜けている人は居る。本来はこういう人たちに付いていかなければならない。


入る学校も関わる人間も全て、これまで努力を怠ってきたツケが回ってきた結果という事実に何の言葉もない。公園で煽り合いながらドッジボールをしている小学生を横目で流しながら通った時、不覚にも戻りたいと思ってしまった自分がクソ程憎かった。死んでも戻るものか、首が吹っ飛ばされたとしてもまだ意識があるなら就職してやるわ。

心配性で済ませたい

去年まで事故の瞬間に居合わせたことは一度も無かった。


先月23日に新今宮駅で起きた人身事故、昨日福井駅で起きた人身事故、今日の交通事故、当然だが自分には何の関係性もないがこの短期間で3度も立て続けに事故が身の近くで起きたのはどう考えても異常で、まるで食欲が湧かない。


新今宮駅での事故は気分転換に宝塚歌劇を観に行った後、大阪付近をフラついていた帰りの時の事で、その感想をウッキウキでブログに書いていたものだったが、事故の話を聞いて書く気は一瞬で失せた。自分は隣の駅に居たが、エグいの一言で済ませられないようなものだったらしい。

昨日は新幹線の事故だった。聞き慣れない警笛の音と明らかに不自然なブレーキ音が駅内に響き渡っていた。女子高生が飛び込んだとの事。

そして今日、普段より早めに学校が終わったからと髪を切りにチャリを走らせていた途中の田んぼ道の交差点で、目の前で車が衝突した。最近工事があったばかりの用水路に横転しながら真っ逆さまにハマって、しばらくしたら中から人が出てきた。生きてて本当に良かったと思う。




明日から研修で3日間長野に行くが、事故現場がだんだんこの身に近づいているせいで正直何かが起きる気がしてならない。そんなもの気の持ちようなのは十分理解しているつもりではいても、おかしいよこんなの。冗談じゃない。


サッカーの話題など置き去りにして、事故や事件の話ばかりが目立っていた。それぞれの事故で誰が悪いかを真っ先に決めたがる奴、影響がどうだとか賢そうに喋る奴、無闇にサイコ発言をしている奴、そいつらはこんな事があったとしても自己主張を止めようとしない。ひとつ分かるのは彼らの発言はどれも無関心の延長であるという事くらいで、寧ろ無関心のまま終わらせている人間の方が正しいのではないかと思ってしまった。

おえかき

ペンタブ買っちゃった。

というのも本命はお絵描きではなく同梱されているZBrush Coreたるデジタルスカルプトソフト利用の為で、こいつがとんでもねえ代物である。が、わざわざ今回これを置いといて(まともに使えるようになったら記事書く)お絵描きする理由については単に「絵が描けないとお話にならない」ことに気が付いてしまったからで、これを機に精進しまくりたいところである。

思ったよりデカくて良かった

業界目指してんならある程度はいけるんでしょとなりそうだけどマジで小学生と張れるレベルの画力なのでがんばります。はい。というか言われたのが原因でがんばってます。

フォトショでいいかなと思ったけどDL版が5000円だったCLIP STUDIO PAINT PROも買って準備万端、さあ行こうぜ。



板タブということで机上のモニタ見ながら書いてみるものの距離感が全く掴めなくて鼻水垂れる。

うわめっちゃそれっぽい、それっぽくない?

なお清書、悲しいなぁ…

ただ紙に描くよりとにかく早い早い早い、ピンポイントで消せるわ戻せるわで修正が楽なのに加えてレイヤー切り替えてお構いなくアタリを足せるのが精神衛生上よろしくて非常に良い。

アゴだけやたら濃い線になっているように綺麗に描こうと手に力が入るとこうなっちゃって、全体的に筆圧の調整が思ったより難しい。そんでゆっくり描くとどうしてもガッタガタになっちゃうので手ブレ補正なるものを使いたいがこれ一生紙に戻れなくなりそう。



正直これでも最初よりはマシになったもので、1〜3日目とかこんなんだった。


まあこうなるよねっていう…


5日目からはちょっとずつマシになってきた感はある。



同人誌とかの表紙をガン見しながら描いた三次創作物をネットの海に放り投げてる訳だけどこれ大丈夫だよね?お金とってないから大丈夫だよね。


ちなみにこの上手い感あるマヤちゃんはガッツリその手の先生にアドバイス頂いて描いたもので、定規でキッチリ測って輪郭取った。

果たしてこれは「絵を描く」と言っていいものかと思ったけどクッソ大切らしい、虚無になりながら毎日続けたら自然に身体のラインが描けるようになるとのこと。やっぱ指導者が隣にいると安心感が違えわ…


そんなこんなでCGほったらかしながら最近はめっきりこんな感じで時間があと2,3年は追加で欲しい。そろそろ人間のモデリングに手を掛けないと手遅れになりそう。
フォトショ、イラレ、CG、web、絵、その他もろもろ検定と、ダラダラ過ごしてたら明らかにどれも中途半端に終わってしまいそうなので流石にアカン。入学してから2ヶ月間ほぼ何もしなかったのが痛すぎる。それと写真が思ってたより重要だったみたいでこれも詳しく触りたい。やる事多過ぎてダイエットとか言ってる場合じゃなかった。

勿論違和感のない絵を目指したいのはあるんだけどそれ以上に人より速く描けることを目標にやっていきたい。

話を聞いてはならない人たち


教団の信者たちは意見を求めてはいなかった。
普通だけど普通じゃない。幼い頃の価値観は親の存在そのものであるという常識が際立って見えていたのは、文字通り別世界に住んでいるような雰囲気が漂っていたからで、居場所があるという信心よりも彼らには社会からある程度隔離されている自覚と常識という類において逸脱した存在ではないという謙虚さがその立場の必然性を感じさせていたからだろう。

もしそうでなくとも誰もが思うのは彼ら中心で回る世界は狭すぎるということである。ルールとはまた別の法律のようなものがもうひとつ形成される中で矛盾とギャップの水平区間に介入することなく生きなければならないのは、閉鎖的になることを初めから推奨されているようであまりに不憫に思えたが、彼が宣教師になりたいという素志を抱いていたことを知った日からは何も言えなくなっていた。

一般世間との距離を垣間見ながら受け入れるシーンにおいては客観的に見てしまえばこちら側としては都合が良く、表では周りに合わせようがある程度は許容したいと本心で感じている人間もいるだろう。生活の中で宗教に身を寄せる人たち対してほぼ無条件で好意的な感情を持つようになったプロットが完成されつつあった前に、大局的に社会不適合者の烙印を押されるプロセスが重要だと何の感慨もなく言い切ったある「同類」の存在がこれを肯定できなくしていた。


社会への反抗心から自らが宗教化してしまった人物の最期はあっけなかったが、彼には超然とした精神が常に備わっていた。
彼の行動の因果はいくら考えたとしても理解の外であったと前置きしておくが宗教を利用して宗教を作り上げて飯を食っていたことくらいは分かる、行動が何であろうと経験の説得力は時代そのものであり頭のネジがしっかり留まっている確信があったからこその人間としての認識、信頼の理由、他人と比べられるだけの正当性があった。正しく世間を知らない子供に放つ言葉には直感で傍受させる力が必ずあった。

彼は、社会が間違っていると突き放しながら自らが社会不適合者であることを自覚し、国も世代も超えた流れ者と共に暮らしていた。ただ簡潔に反抗心の裏返しではないとは感じてもそれ以上は分からない。いかなる童心を利用するなれば憎むべき相手ではあるものの、理想を掲げる熱い心は「教団の信者たち」とは一線を画すものだと感じてしまった。

ただ、セーフスペースから一歩踏み出してみればどこだろうがそこにいる人類はほぼ敵だということを彼は知っていたのだろうか。ほんのくだらない理由と少しの暴力で彼の積み上げてきた量り知れない努力と知識と小さな社会空間は一瞬でこの世から消えた。その報告と言い訳を電話越しに話していた仲間の会話は聞こえなかったが、その様子はいつまでも滑稽だった。彼らは最初から対話は必要としていなかった。


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偏見は持って欲しくないと、些細な選択がある度に諭されるのは悔しい。その言葉を発した後に返答がないことについて価値を有した瞬間の自信が秘められているだろうとの嫌な確信はあるが、それでも脳内でそいつの人間性を否定してやることしか本能的に有り得なくなっていたのは、何を優先すればいいか分からなくなったからというものがある。単に言葉の重みを感じるか、存在そのものに説得力があるか、人間性を考慮するか、気分の巡り合わせでその場の思考がどうなろうが後で簡単に順序が逆転する。

似てようが似てなかろうが人生がどうにかなった事実を明確に自覚していたとして、何故どいつもこいつも主観性しかない、量りようのない程度で勝負したがるのか。イジメられた、虐待を受けた、家族が居ない…彼らが想像の限界を超える程に非日常を地で往く生活を送っていたと思うとあれこれと考慮しなければならないのは至極当然のことだが、それを盾に張り合った瞬間そいつは最悪の人間になる。自分が何をしてもいいと本気で思っている人間同士が、互いに嫌っている。ありもしない理解者を探し回り、たった一つの言葉やほんの少しの行動を時間が経つに連れ徐々に神格化していく人間の押し付ける価値観は常識から離れ過ぎている。

彼らも、信者も助言は必要としていない。だが信者には共通思想を掲げた仲間がいる。それが嘘でも幸せに暮らせる家族がいる。辛い過去があったからと簡単に放免できていいのかとかいうクッソくだらねえ疑問が常に付きまとうのは、「彼には何かが必要だった」と言ってしまえば全て終わりなのを分かっているからだ。

退化


結局、この人生の何がいけなかったのか。根本にある身の上の懸念がある訳でもなく、ただ当然のように今傍受している情報は全て結果である。社会の流れに何としても乗るために競走を経て就職進学を決めている世界があるというのにこちとら金さえ払えば入れる専門学校、それは悔しいというよりも疑問しか残らず、ではお前の夢はどうなんだってこんなもの「普通のサラリーマン」になりたくないから目指してるだけである。他人からだって同じようなもので、クソガキの頃一緒して毎日のように遊んでいた友人が、6年振りに会えば一分一秒の濃密さを放つだけの存在に成り代わっていた。何が起こるか分からない、何をさせるにしても不安しかない親の目には時間分の結果が付きまとっている。
親には感謝している。家に住まわせてくれること、金を出してくれること、ただお前は今の境遇に感謝しろと突き放されたくない脈絡上の嫌なプライドがある。後にも先にもこの話には正論がブッ刺さるが、神にも擬せる空想上の人間にフォーマルな意見は頂きたくはない。

結局、何が悪かったのか。

この3年間で人間の構築ができたものか。努力という言葉とは無縁のまま今日を迎えるというのは、圧倒的な説得力と訴求力の不足に繋がる。声を聞くだけでうんざりする程他の奴とは違うと主張したがる大層な人間はいくらでもいる。それを分かっていても、否定も肯定も認められるものとして説明する矛盾は道理として捧げられることを信じている。ある程度無難な人間にならなければいけないのは当然のことである。

抱えた夢を否定する余裕はないというよりも、諦めのように必然性を感じてきていることについて、内的なものとして認められている輪郭は一般論として変化することは無い。何度死んで生き返ろうと勉強をやるつもりは更々ないが、授業中は寝て部活はダラダラと向上心もクソもなくやり過ごした毎日はもう少しマシになったのではないかとは思ったことはある。


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学校を辞めたという噂を聞いて連絡してくれた友人達から慰めの言葉を貰った後、安心感と自己暗示に包まれながら通信制に入学したがそれを臆面もせず話すようになっていた。保身の為でも心配されたくなかったからでもなくこの過程そのもののステータスを貴重に思っていたという頭だったから以外に何の言葉もない。

しかし入学して半年、友人と久々に話すタイミングで前述の目論み通りにと回りくどい説明を乗せて披露すれば、そんなもの無職と同然であろうと直球で言われ、腹が煮え滾った。社会的にゴミベラの位まで落ちていたことを自覚したくなかった。人生で初めて明確に物事の決断を下したのが退学の瞬間だったと思い込んだ前後はヤケクソだったかもしれないが、逆にそれが自信となっていた部分は少しぐらいはあった。クソみてえな気分で他人に諂う必要はないと考えるだけで気が楽だった。処理上の感情と状況に満足していた筈が普遍的価値からの解放が常識の規範から外れる前提である当然のことを思い出されて電撃が走りまくった。気に入らない事があればすぐブチ切れて喚き暴言を吐き対抗意識しか芽生えなかった自分にとって、誰も何も言ってくれなくなったこのタイミングでのこの言葉はあまりにも気持ちが良かった。

一変したと言うには仰々しいが人間としての及第点へ距離を詰めようと意識はしていた。良く言えば自由だがその分迷惑のかかる行動に呆れられることは多かった。圧倒的に一人でいる時間が長くなってからは単純だった。学校はどうだ、学校はどうだと友人に聞きながらその話に嫌気が差していた。


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やるからには倦怠感のみで構成される傍受サイクルはブッ壊さなければならない。もうここまで落ちぶれるとやるしかない。ようやく個性やら特技やらを身につけるために早起きするのだからマジでやらなきゃ終わる。後悔もクソもない人生だが、この2年間をすっぽかしたら確実に破滅する。

他人はどうだとばかり予備動作を重ね、感情に起因するべきものを探っていた毎日は一瞬で消え去ってほしい。たかが人生の猶予を伸ばすと考えていたいつしかの自分では気合が足りなさ過ぎた。
初速は最底辺だが時間の使い方を弁えることができればいくらでも追いつき、追い抜くことはできる。せめて自分の才能に絶望するまでは猛スピードで小便ひっかけ回しながら走り抜けたい。

それでも正直、実感が無い。スイッチが入る瞬間を今か今かと待ち望んでアホ面する余裕は無い筈なのに、無意味にこの文章を書き続けている。この3年間何を求めたか、強制の2文字しかなかった。


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などと1ヶ月前は考えていたが、何もかも遅かったことにやっと今気が付いた。来年の今頃には就活を通り越し就職が決まっている。ここでダメなようなら全くの無関係の一般企業にこんにちはしなければならないのは当たり前、少なくともこの学校のこの学科では9割以上がそれを強いられる。2年生は現時点で同コースに2人しか残っていないことに加え、希望職に就いたという話は聞けなかった。

大方は分かっていた、わざわざ地元から学校を選んで楽をしたかった分の苦労はしなければならないのは当然だった。張り合いのない人間ばかりが集まってダラダラと教師の言う事をなぞっているだけの毎日に何の誇りもない。

専門学校の1日は短い。必要最低限のカリキュラムの中で気が付けば1ヶ月が経ち、身に付けたスキルの実感だけでモチベーションを維持しようとはするが、日常生活の中で圧倒的に無駄な時間を消費している自覚は痛いほど滲みてきている。自覚のない前提を説明する余裕もポリシーも嘘もなければ何がどうなっても言い訳は出来ない。


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単に高校生活を普通に送っていたとして、今のような立派な人間になったつもりでいる執着心は得ていなかったかもしれないが、どうせ同じようなものになっていたと想像するのは別におかしくない。時間が必要だったと確信的な結論を吐きまくったが、後退した分の時間を取り戻しただけの進歩だということを知らなかったからいつまでも幼稚なことについてずっと疑問を持っていた。

馬鹿な人間なのは間違いない。他人からの扱いがどこへ行っても同じようなものな時点で察してはいた。ただ、どれだけ考えたとしてもここに残る時点で他人と何ら変わらないのは一番理解しなければならなかった。県や国の外に出る選択について考える時間は十分あったのにわざわざここを選んだのは馬鹿だったと今更感じている。
毎日愚痴と自慢を聞くだけのクッソつまらねえ人間関係も含めて「倦怠感のみで構成される傍受サイクル」は当分解決できそうにないが、少なくともそういった奴らを見下す為に奮起になる自分も同類だった。

マルチなトリプル

「これはこれでいいけど、こっちもできるようにして」
しかし、相対的な価値は与えられるものではない、情報としての満足の尺度は一体どこから来るのか、それは多様性の証明である。あくまで想像の「さわり」ではカオス理論(すっとぼけ)的なもので錯誤される期待は、いつしか価値の決定の瞬間がもたらされた時に固まるものである。何を当然のことをと思うが、事実確認すると共に、現代において求められていることはひとつであり、ひとつでない。

そのひとつとして、謝罪がある。謝罪というものは社会において相手方に示す態度であり、自身の地位を維持するための行為、または意思表示である。謝罪とは、反省ではない。反省は行動であり、行動は謝罪ではない。そして、これを進化と呼ぶか末路と呼ぶかを誰かが決めた時、決まって金魚の糞のようにくっついてくるのが後付けの「根拠」であり、それでいて価値の変わらないものが、はじめて社会的な地位を有している証明となる。そして根拠のない共感で価値を失いがちなのが「言葉」である。

この「態度」と「言葉」が「行動」に直結している当たり前の事実を、最近まで理解できなかったので、こんな書き方をした。
態度と言葉を失った人間、もしくは、これらを信用していない人間というのは、割と世の中にいる。人間の内的なノウハウの程度とか、経験とかいう話ではないことは伝えたい。チンコが右曲がりの奴は天才とかそういう話は好きだけども。

ここで悲しかったのが、自分の考えははっきりと言う、といった意見はゴミに等しいと痛感したことである。何が左右するのかを介さない空間はどこにもない、もちろん社会組織に属する上で何らかの目標が存在する場合はまた別の問題となる。
ダメな人間は、何を言ってもダメ。思い返せば、他人の正論なんてクソ程にも有り難いと感じたことは一度たりともない。俺という人間、拒むことを知らない種壺精神には自信を持っているが、結局こういう人間は言葉を発すれば発するほど価値がどんどん落ちていくことを知らなかった。自身の行動に対して理由がついてこない事を本能と呼ぶにはあまりにも簡潔過ぎて納得がいかない時に、ただ相手に与えていると思っていた情報が社会という空間を通されていることを知らなかった。

両刀論法


幼稚園児や小学生が当たり前のようにインターネットでの出来事を話題にしていることに親近感、あるいは妬みや羨望を強く感じるものだが、これらは大人もいつしか同じことを思ったかもしれなくて、同じ社会に生きる者として自分との同一性という期待をかけてきていることは先の「インターネットが生まれた頃にはもうあった人間」に親近感を覚えることと同じで、たった10年違うだけの人間にかける想いはあっても、それを感受する側は煙たいとはね除けてしまうことを自分が証明してしまった。
大人からの褒め言葉は人間性の肯定にはならない、寧ろ「嫌な出来事も含めて」もっと経験したかったという大人が自らへの環境を否定しているものだと解釈した時に、とても褒められているものではないと感じたなら、時代として簡潔に答えが出た時にも、抱いた感情は途切れないという非可逆的なものはこの先信じたいものではある。
それでも、「やりたい事があるなんて羨ましい」と言われた時には何て言えばいいか分からなかった。30代、40代の人が自分という10代の人間のどの部分とどう照らし合わせて喋っているかも分からないが、この時点で何か潰されそうになったのは、こんな落ちこぼれの人間を見て自分への後ろめたさを感じないで欲しいと腹を立てたからである。どうも、こんな奴でもやり通す意思があるのかと過去の自分の落ち度を責めているように見えて異様に悲しくなる。
「大人が」大人や子供を定義付けるのは糞を撒き散らす程この世で一番嫌いだけど、わざわざ感情を取りに来る価値が良くも悪くもあるんなら、提示できているという証明が自然的にされている事になる。自分の理解が及ばない事柄についてそれを可能性と呼ぶか否定の意思を示すかなら大いに賛同したいが、都合の良いものを言葉で説明せずに嬉しく思うなら、疑問の上で破壊したい。

このブログでも散々書いてきたけど自己欺瞞を自覚しながら正当性を確保しようとする自分とその過程における矛盾が嫌いな訳はなく、「一般的に」違うんだよ、分かってるよ、逆でもそう、たかが個人から通俗的なものを感じるなというどこからかの言葉を常に警告されることに嫌気がさしているから、個人の尊重が対置された時に愛想つかしてケツを振る。たまげたなあ、終着点は同じじゃないか。

これを読んで「被害妄想」「楽観的になろうや」と思われたとして、そんなもの何の指摘にも慰めにもならない。個人の前に社会的地位として裁かれた重さが認識の中に存在するなら、抽象的な規範と同時に上から目線で定義付けられる共通意識はブッ壊していきたいと思う。



余談

あっという間に一週間が経ち、また2人だけの生活に戻った。
勿論手厚く歓迎しようという気持ち以外有り得なかったが、この家に他人を住まわせるという行為はどうも落ち着かなく、人間として保守的にものを所有するという欲を掻き立たせ無意識の内に高圧的な態度をとっていたせいか、何か一緒にやる時に露骨に嫌な顔をされていたが、最後の2,3日はお互いストレスフリーに生活出来ていたと思う。一週間という長くも短くもない期間に救われた。
無計画な父親に腹を立てまくっていたのでまあ邪魔な存在でしかなかっただろうけど、これも含め正直反省する点があり過ぎる。呼応とか抜かしたが考える暇も無かった。

襲来


詳しくは話せないが、今夜から外国人が一週間この家で生活する。そして今週バイトが一日たりとも入ってない。これがつまりどういう事かと言うと、「日本人の子供はまともに学校にも行かず仕事もせず家でダラダラしている」なる印象を与えてしまう危険性を孕んでいるという事である。

日本という先進国にどんな期待や懸念があるかはサッパリ分からないが、自分が海外で人の生活を客観的に見たように、というか主観的に見るなら失礼極まりない行為だがまあとにかくそれと同じ目が「子供の」自分という人間ひとりにフォーカスされる確実性には自信があって、そして何を提示できるか、いや提示という一方的なものでなく呼応する環境を秘めているという前提の期待もあるかもしれない。
途上国でも、子供は学校に行くものである。それが日本の子供は全日制を捨て遊びにほうける選択肢を持っているという見方をされた場合、果たしてそれを楽観視してくれるかどうか。自分で言うのも悔しいが、通信制なんて高校行ってないのと同じである。幸い卒業に向けての課題に追われているため「勉強している姿を見せつける事ができる」のは間違いないが、こう考える自分が悲し過ぎるのもまた間違いない。

まだ家に来てもいないのに既に面白い。夜までの時間に追われまくってんのにそれどころじゃなく嬉しそうにこれを書いてるのでヤバい。
何をしなきゃいけないかって、一番に掃除である。この家は落ち着くとの評判を得ているがそれは絶妙な汚さ故にもあるので清潔感を第一に、幸い汚いとされる原因に当るそこら辺に散らかっているものの所有者は9割方この俺なのでまず掃除。そして自室、家族以外に誰も上がらせた事は一回もない理由は圧倒的な汚さにある。これに限り文章で説明するとしても想像には難くないと思うが、エロ本が積み上げられ下着は散乱し、(何とは言わないが)中身が一杯のゴミ箱が平然と2つ並んでいる。そして日を追うごとに増えていった飾る予定とされたアニメグッズが机の上で山を作っている。当然この部屋も見るだろうからさっさと掃除して換気してグッズを飾らなければいけない。お前この前掃除したって記事書かなかったかってか?あれは部屋の半分の話だ。という事でネオジム磁石を速達で購入した。160円から300円に大幅値上がりしてんじゃねえよ。早くしろ。


見栄の前に衣食住の要素を考えなければいけないがそもそもこんな記事書いてる場合じゃねえ。

デスクトップ・デビュー


遂に愛用のAcerタブレットPCがブッ壊れたので、急いで新調したい。

正直この低スペック(AtomZ3735F,メモリ2g)低価格で何の問題もなく無料オンラインゲームやofficeを利用でき、マインクラフトでもシェーダー、テクスチャ導入してのマルチプレイで十二分に遊べ、60fpsアクションゲームの動画編集やエンコードがWin10にアップデートしても不備なくこなせたので近年のパソコンが凄いことに間違いはないのだが、何といっても3年持たずに壊れたこの脆さは記憶に残る。まあWindows8.1が出たばっかの時の商品で(買ったのは2015年)、着脱可能タッチスクリーンで厚さ1cmにも満たないコンパクトさ、バッテリーも8時間持つという夢のようなパソコンだったのでしょうがないっちゃしょうがない。よくここまで動いてくれた。


これからミドルスペックのものを買うにあたり、いくらいいものを積んでいても5年は使いたい。去年のニュースかなんかでゲーミングPCの需要が増えていると家電量販店の店員が話していたのを見たが、その顧客を狙った罠はどうしても踏みたくないので最低限の知識はつけておきたい。

そもそも何故、PS4でしかゲームをやるつもりがないのにミドルスペックPCが欲しいかと言うと、3DCGのモデリングレンダリングをやるからである。CPUは勿論、グラボもメモリも必要になってくるので必然的にゲーミングPC辺りを探る事になる。
そしてノートからデスクトップに乗り替える。ノートのゲーミングPCはちょっと怖い。ノートにスペックを要求するのは違うという固定概念がこびり付いているのもあるが、CPU冷却において貧弱であるとか、空きスペースがないとか、バッテリー駆動であることが不安要素として挙げられる。

問題なのはそもそもPCのスペック関係において全くの素人の身分であること、「これ使うとこんだけ動く」くらいしか関心も知識もない。グラフィックボードとか3日前に知ったわ。必死こいて勉強と情報収集を繰り返す中、数値だけを見てはいけないことはとりあえず念頭に置いている。
予算は税込送料込で15万。


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前置きはもういいのでCPUやCPU。
Intel Core i5にするかi7にするかだが、まずなるべく新しいものを選びたい。お値段的に考えて、i5なら8世代の8400、i7なら7世代の7700でいこうと考えている。この2つ実はそんなに変わんないらしいし、じゃあお安いi5 8400でいこう。つってもi7は7700Kへの無料アップグレードとか結構見るのでその辺も視野に入れておく。


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お次にグラボ。

中でもよく名前が見られたGeForceにするかQuadroにするか。調べて出てくるのは
「ゲームならGeForce、3DCGならQuadro
「ゲームも3DCGもGeForceで事足りる」
どっちだよ。誰か助けて。

そもそもこいつらの何がどう違うのか。そこで出てきた単語が「DirectX」と「OpenGL」。
どちらもソフトウェアで、あらゆるPCの動作を快適にしてくれる優れものらしい。この2つでその「あらゆる」が変わってくる。DirectXはゲーム・マルチメディア処理用APIOpenGLはグラフィックスハードウェア向けのコンピュータグラフィックスAPIなんだと。同じ括りのソフトウェアなので基本的には「選ぶ」動作があると思うんだけど、こうして用途が分かれていると理解しやすい。
そんでGeForceDirectX特化型で、QuadroOpenGL特化型という事で、Quadroに狙いをつける。

しかしどうだ、3DSMAX(使用予定ソフト)を実際に使ってる人のツイッターとか覗きに行くとGeForce使ってる人結構いる。3DSMAX初心者質問スレ行ってみるとDirectXは当たり前になってたりバージョンによってOSそのままにしてるから基準が…え?ま、まあまあまあまあまあまあまあ待てや。落ち着け。これ以上考えると頭がショートする。マルチタスク非推奨。この頭マルチタスク非推奨。ひとつひとつ処理しろ。

記事だとQuadroSNSや掲示板だとGeForce。なるべく新しい情報を選んだ。記事では数字だけを載せている場合が殆どで、Quadroは基本という一種の常識のように語られている。一方SNSや掲示板では数字は全く出てこない。信憑性があるのはどちらか…
記事というのは根拠や説得力が必要となってくるので数字は勿論、言い伝え的な話も用いる場合がある。PCに限らず「実は使ったことがない」から他の情報媒体から仕入れるケースが本当に多いのが困るところ。人間って怖いね。ということで、今回はGeForceに決定。

決定するにあたっての判断要素は他にもある、Quadroはクソ高い。免許取りたての時は軽安定と説得されるのと同じで一発目は金をかけ過ぎたくはなく、逆にグレードの低いQuadroを買って後悔もしたくない。


GeForceに決まったところで、どれにすりゃええんや。
GTX 960Mを搭載したPCを購入した友人が後悔しまくっているのでこれを基準として、次に出てくるのがコスパ最強の(ってどっかに書いてあった)GTX 1050Tiだが、2018年になっても購入者は沢山居る模様。ゲームするならこれで十分だけど今回は余裕を持って上のランクに。
となるとGTX 1060 3GB または6GB、商品によって単品の差額を大きく超える場合があって面倒臭い。これなら1070選んだ方がいいんじゃないの…と気が付いたら予算ブチ抜いてたまげる。しかし最新バージョンの3DSMAXで1060 6GB使ってもカクつくわという声があり恐ろしい。でも3DSMAXで何をやってカクついてんのか分からないので判断出来ない。め、めんどくせぇ…
とりあえずこれもどっちでもいい。


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次にメモリ。

8GB(4×2)か16GB(8×2)のどちらかにするか、ここまで割と幅を利かせてきたので16GBでもいいところ、または8GBシングルにして足りなければ買い足すという手もある。描画処理はグラボがやってくれる筈なのでデュアルではなくても問題ない…んだよね?(疑心暗鬼)
しかし広く選べるとは言えメモリの場合はショップによってデュアルばっかりだったりするのでこれも頭に入れて8GBシングルまたは16GBデュアルどっちでもいい。
一応この記事書いてる時も探しては比較しているんだが、どのパーツもひとつに絞ってしまうと納得する商品が出てこなかったり割引やらキャンペーンやらを見逃すので妥協案と名乗ってワイドに行こう。できれば8GBシングルで。


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最後に容量やらその辺。

これは最初からある程度は決まっている。SSD搭載してるやつ。250GBあればいい。システムドライブとして運用して余った分は好きに使う。
HDDは1TBあれば大丈夫でしょ、大丈夫大丈夫(適当)でも2TBのアップグレードで+3500円はどう考えても安いが、いざという時はPS4の外付けHDDブチ抜けばいいでしょ。
自作じゃないのでマザーボードも考えない。
ポンポン出てくるオプションは要らない、この手のオプションは一切不要と叩き込まれているので便利な身体です。


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最後に父親に相談すると、「やめとけ」の一言で打ち切られて草枯れた。用途が違うとは言え、いくつ買い替えてきたか分からない人間の発する言葉は重いんだろうが、俺にはそれが解らんのでジレンマがありすぎる。

本当のところを言うと、たかが初心者が3DCGをやる最低ラインのスペックはもっと低くていい。学生の頃にいいもの揃えたって意味がないという意見はいくつも見かける。最初に5年は持ってほしいとか抜かしたが、パソコンなんて2,3年で買い替えるのがオチなのは知っている。

じゃあ何で拘りたがるのか。そりゃ初めて将来の為に金を使うからよ。プリパラに射抜かれてようやくアニメ業界に足を運ぶ準備ができる。ID-0とかで興奮しまくっていたセルルックCGのプラグインも備え付け。結果的に希望の職に就けなくとも、CGを学ぶ機会を得られるというだけで有意義だと思っている。それと今まで手の届かなかった、というか届ける必要のなかったパソコンを今こうして買う事になったので純粋に楽しみなのもある。
御託を並べたってスペック分の高度な作業できなきゃ意味がない。じゃあ腐らせない為に、娯楽に使っちまえばいい。つまるところはVR、最近ゲームの熱も冷めてきたと思ったらVRの登場で少年心がモロに帰ってきた。VRという単語を聞くだけで勃起する。じゃあ購入できるじゃない!クンツォ!いやVive買う金あんの?


ということでパソコンの方は注文済みなので届いたら書く。

懺悔タイム4


嘘だ。「嘘は滅多につかないと言いたい訳でもなく、具体的な現実ではなく無意識的な感情」なんて立派な嘘。実際は嘘をつきまくる本物のクズ野郎、ただ見栄を張りたいだけの、焦燥感ひとつで行動し、生きている人間。
善も悪も構わず正直過ぎる人たちを間近で見て真に感じたのは、紛れもなくこの俺が嘘つき人間であるということ、この前書いた「行動原理」、自分が嘘つき人間であることの証明を踏みとどまって誤魔化した。それを説明しても今はまだ、これとこれについては事実と一々弁明したい自分が確かに存在しているのはとんでもなく憐れで、クソクソクソクソオブクソ。
最近妙にリアリティを感じられなかったというか、これまでやってきた事はもはや他人事のような気がしていたのは風情もクソもなくそこに対置されていたからだ。何もかも中途半端な文を書いてきたのは捻りもなく現実から逃げたかったからだと理解した。
他人が嘘をつき始めればすぐに分かる。「まーたその場しのぎに話作ってるよ」こんな思いが、自分にも当然のように向けられていることに何故気が付かなかったのか。本物とされた嘘が年月を超えてやって来た時、もの凄く惨めな気持ちになった。それは、周知の事実として完成しきっていることに腹を立て、ただ肯定する。あるいは、既に見抜かれていたのだろうかと思い、どうしようもなく互譲を見る思いで応答する以外に選択肢が与えられなかった。相手が本気なのに、対してはこの有様、あまりにも酷い。大した話じゃない、そんな事は分かりきっているが、敗北感というか、見下されているというか、ただ申し訳ない気持ちで一杯だった。
半年前、一番付き合いの古い友人とこれでもかと腹を割りまくる機会があった。初めてだった。日が落ちる前の小学校の校庭で、感情をそのままに話し、ただひたすら謝罪と賞賛を繰り返し、深夜を回り親から電話が掛かってくるまで時間を忘れて話していた。そこには嘘なんてひとつもなく、高め合おうという意識もなく、2人の間にあった出来事で認知していたもの、していなかったものとその相違を互いに確認した。自宅に着いてベッドになだれ込んだ瞬間の満足感、後ろめたい気持ちのなさ、一種の勝利感は懐かしいものがあった。
その勝利感は母親を言い負かして部屋に籠らせた後、自室に戻り、なぞるように自分の発した言葉を思い出して悦に浸る瞬間のあの感情と似ていた。久しぶりだった。日常的に行われた喧嘩の中で原因は見事にひとつも覚えていないが、既成事実の塗り合いが必ずあったこと、結果の先にあった勝利感、敗北感は鮮明に覚えている。そのうちの片方が物理的に震える事無く、それも事実の塗り合いだけでやって来たのは快感だった。意義や証明の過程として「母親を言い負かし」ていたあの時の行動、母親がついに出て行った後は自己の正しさを証明する手立てをついに失い、どんな人間であるかサッパリ分からなくなっていた時に同じ感情を抱いたのは、友人との間にあった会話の正しさを証明する前に、母親との間にあった喧嘩の正しさも結果的に証明してしまった。
それからは、これまで行ってきたことに対しての絶対的で必然性も秘めていた嫌悪感が消え始め、時間は何も解決してくれないと思っていた正しささえも消え、本当に時間は忘れさせるものだと悲しく思いながらまるで美談のように贖罪のつもりで反省を文字に書き起こせる自分は一枚岩ではなく、二枚舌でもあると惚れていた。その結果として12月の記事で「相対的に見なくともここ数ヶ月はいい生活を送れてると言える」などと最悪の思い込みが言葉として出た。全ては自分が招いた嘘だったことをやっと今理解した。愚かすぎる。

もう正直に生きたい。道徳的な堕落なんて常に起こっていた。後悔しかない。心機一転とかほざく前に甘えた人生の汚点を洗い出して、それからやっと、金使って、金稼いで、アニメ観て、ゲームして、友達と遊んで、美味しいもの食べたい。

あくまで強気に


あるいは惨めに、旗幟の不透明さが裏目に出たのか方向性の疑念を煽るこの体たらく、それでもまだ五分だとセーフだと安堵しているつもりが、実際は端から心配すらしていないという楽観、疑問に疑問を返す始末。結果論がどうしても欲しいと回顧してしまえば正解か不正解か、あっさり答えを出した。しかし採点などという一貫性など求めてもなく、良く言えば無造作。次に良いか悪いか、要するにストップモーションではなく「口上」の問題としてはどうかと言われるとあまりに物語がなさすぎる。減らすものは減らし、消すものは無視した過程はあれど(これを進歩というかは別だが)、人間に近付く為か遠ざかる為か知らねえが身になったものには一旦区切りがつく。

重要なのはここで示すもの、つまり威厳である。それがあるかないか…なくない?
理解の及ぶ感情の肯定をある程度は嫌ってきたものの、先にも似たような事は言ったが高低差という相対評価、否定と同情の中での優位性、そういった類のものの結論を出されるタイミングが来てしまったからにはそれをどう表現するか、その「くだらなさ」で勝負をかけたい。

勝負したい以上、ここで興味もクソもない話をするのが最適なのには自信がある。例えば友人、こいつに彼女とかできる訳ないやろと思ってたのが5人くらい作ってたとかそういう表面の表面上でもうらやま…正しくルサンチマンが形成されている事実に並行して俺が出せる最強の武器は、布団から起き上がるモチベーションの管理とか昼飯のやり過ごし方とか風呂に入らなくても臭い的にセーフな最長時間くらいしかなくて結構困っている。

文字で叙情する上では余裕がつくもの、そこに人間と人間が関わっているかどうかの人間の会話に対抗しようという時に、どうしたものか折衷する余裕もない。何かはあっただろと思った瞬間、あまりに人と日常会話をする機会を失ってしまった愚かさに気が付いたと共に何をどんな風に話せばいいのか忘れてしまったのである。
これが威厳の尺度となる。このくだらなさでいい。本当はもっとスケールの大きい話であると傲慢になる必要は無い。これが俺のレベルだ。


アホな話で何やら説得力が消え失せたようだが、つまりは猫背を直し、痩せなければならないという結論に至る。威圧をかけろ。格好で勝負だ。全員ブッ倒すくらいの気持ちでIKEA。そんな感じで心機一転、走らさせて、頂いてます。

最大瞬間風速


やることが分かっているならモルモットでいい、分からないなら人間を使いましょう。何に舌を巻き、何を見下すか、答えが出たと思ったらいっっっっつも一枚剥がれてやり直し、魂は消えて、羽が生えました。等価交換でも喜べない。尺度が分かってない。価値、あるいは長所と呼んでいいものが通り過ぎるタイミングは簡単に可視化できているはずなんだけどまさしくここで「道徳的な堕落」が並行するという、ちょっと面白い現象が起こる。

という毎日があったとして、果たして進むか戻るかと言われれば止まったままのはず、今日はこういうことにしておいて、つまり現在って未来でも過去でもなかったんやなって思う。クソ当然だけど割としみじみ感じてしまったので余程のバカかアホかのどっちかだけど、敢えてスッカラカンの頭でパッと思い付いた言葉で言うなれば希望、何やったんやろなぁ、苦労というか孤独というか…

結局思想の問題でなくやっぱりただの感情、周囲で「あほくさ」って出来事か「ええやん」って出来事のどちらが、上かな?(天地創造)とかいう単純で自己中心的な概念が見解やら世論やら呼ばわりされている事実、いや外的なものじゃなく、内面としての。

情熱も優しさも厳しさも要らないと言えば嘘になるが、どうにもこうにもできない輩がちょっと目立つからには、別に不便な言葉ではないんじゃないかと思う。もっと小さい頃は大人は嫌な生き物だと散々思わせてくれたもんだが、今もまたナチュラルでピュアな幻想が戻って来るとは流石に予想もつかなかった。変に意地悪に考えてみれば大人は子供に優しくて当然と無意識的に感じていた可能性が微粒子レベルで存在する…訳ねえだろ。
どっちにしろ常にこのクソ寒くてくだらない町からさっさと逃げ出したい気持ちではあるけれど、もちろん成長を感じられる部分は少なからずあるものの、いやそれすら否定するつもりは更々ないが、因果は因果っていう縛られたものだったら時間だけ取られていくんじゃねえかと。

まあ「常識的に」考えられたら社会性の話なんかアンチテーゼなる一単語聞いただけで笑われるから、派手な格好するんだったらその理由を探してもらえばいいだけの話。

無題


蕎麦が食いてえ、蕎麦が食いてえとひとりクソ寒い中近所のやま岡そば屋へ足を運ぶ。表通りは車が多くて嫌いなのでいつも横道からぐるっと回って行くのだが、ようやく店の裏口に付いたところでいつもは表にある筈の看板が立掛けてあり、嫌な予感を抱えながら入口へ向かうとそこには「店じまい」の文字が書かれた紙が貼られて…
うせやろ?
まさかその場で自然的に淫夢語録を口に出す時が来るとは思ってもみなかった。いやそれはどうでもいいんだよ。しかもひと月も前の12月16日に畳んだとの事で、理由としては諸事情(体調)と書かれており…あぁ…オ゛ッ…もうマジかとしか言い様がない。11月末に一度行ってからというもの珍しく多忙で行けなかったとかいう苦し過ぎる言い訳をするほかなく、ああもう、あの…あの卵カツ丼セットを最後に食いたかった…幼稚園に入る直前にここへ引っ越してきてからというもの、蕎麦と言えば最初っから最後まであの店だった。数年前からひとり店に入ると必ず浮かぶんだよ、右奥にある座敷で家族と飯を食う風景が…あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あの店の卵カツ丼セットが食゛い゛て゛え゛よ゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛

反動


明けましておめでとうございます(10日遅れ)

この年末年始ではありがたい言葉を沢山いただきながら美味いもの食って…気が付けば80kg台におかえりなさいしてた、クソが。


40年前までの1,2,3日はどこも店は休みだったらしい。正月に財布を出すと縁起が悪いとか、我が家は特に意識が薄いのか一同に集まるといった事は少ないが、親族の帰省を当然としたりと時代の流れが少しずつ感じられるものだった。次いでバブルの話も挙がり、座ってるだけで時給1200円貰えたバイトの話や百貨店のお得意様の話などの面白い話が出て、決して誰も昔は良かったと言いはしなかったが、会話からひしひしとその雰囲気が伝わってきたのは間違いない。

自分が就職するのはオリンピックが終わった直後、つまり景気が落ちに落ちたその時になる。
2012年頃の東京五輪のあれこれでは売却前提の土地、施設の改装案、税金の未使用など前回の東京五輪終了後の不況を踏まえての説明があったが、小池知事の誕生で動きのあった2016~2017年ではどうだったかと言われると、いつものIOCも含め全体的に悪い印象を残していったのは残念なところではあるが、頑張ってもらいたい。





余談


偽善でないのは分かってあげたいが自己愛と自己顕示欲に乗せられた正義感をお持ちの社会派がどんどん世の中を狭く面倒にしていっているのに呆れる人も多いかと思う、極めて断片的な情報で毎回のように妄想を口に出せたものかと思えば立派かもしれない。
が、それすら負の反骨であるということをまず最初に理解しなければならない時代である為に、自然的な流れで思想の形成がある時に良くも悪くも主張が通る前提であるという事、これが当然とされるのがまた怖く、善にでも悪にでもなり得る偏ったモラルとも取れる人間性、寧ろ自分自身、概念が多様化されていく今日に便乗しようがしなかろうがそれは正しくも間違ってもある。
常識と銘を打っているものの正体はただの感情であることを言い聞かせたとして、言葉の次点が行動である時、それはブッ飛んで強いのは間違いない。ツイッターもこのブログも同じく、一方的に発信すれば大方は満足する。軽いとされた言葉を重く受け、逆も然り、何の生産性もない出来事が「ネットでは」として評価される中で、行動を起こせるのは本当に強いと最近思う、というお話でした。