土に埋まりたい

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他人と、他人の意識と人間の変性を理解しなければならないのが今抱える最大の課題だ。状況的にやむを得ない場面は発生する。事象を問題化するのであれば対策があるものとするのが通常だが、いくら自分の精神に代入しても、自分と他人とでは関係性がある限り行動の意味全てが別の場所を歩いていると感じた。何を問題とし細事とするかは緩やかに育ってきた知識と経験の副産物としての無意識のフィールドだ。笑いたい時に笑って、怒りたい時に怒れるか?そんな事は理論上不可能と結論付けた社会を上手く生きる為に社会を対策してる限り、自分に対して嬉しく思う日は来なかった。

行動や発言や反応の結果を基に他人を判断するのはもうやめる。イヤな相手に対しては自ら遠ざかった。それよりも何に感情的になるか、どんな風に考えるか、どういったことを言うのか、言わないのか、その人の世界を見る方が面白い。成長の種として選択するデバイスは何だというアプローチでは、いかにも近代っぽくて断片的な情報しか得られなかった。自分が相手に与えられる情報は少なく、足並みを揃えるには何もかも見合っておらず不適切だが、その上で共感を視覚化されたイマジナリーフレンドとして育て続けなければ優れた人間になれないという予想がある。今まで自分と他人を完全に切り離すのは今まで生理的に無理だったが、いい加減変わらないといけない。


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昔は物事を、連続する二次元的なスペースで捉えていた。娯楽にしても全体のバランスや印象で遊んでいた。今は構造とかクオリティが内包する要素を羅列するみたいなのが主流の思考で、子供の頃の、情報が不足してる故の可能性というか、その刺激の良さが気持ちよかったのかもしれないと思った。人によって子供の定義が違う。俺にとっての子供とは、心の中でしか消化できないものをそこで流し続けることだった。記号的な情報が入らなければ雑念が少ない。でもこの気持ち良さの反動で不都合も起きるから変容するという事を理解できていなかった。

結局何が正しいかはどうでもよかったりどうでもよくなかったりした。何でもかんでも合理性にこだわると簡単になり過ぎて危険だと痛感した。今までずっと自分対その他みたいな構図で考えていたが、もっとシンプルに関係性そのものを情報の合流だと思うようにする。社会の下らないシステムに支配された人間共の世界は面白くないので破壊するという当時の気持ちは理解できる。キリが無いからって物事に諦めた奴から雑魚になっていくと身構えていたのも分かる。マジでオッサン共が舐めんなよとなっている状態、それが自分の目的を見失わないようにする方法で、 一々感情的になる事は周囲に取り込まれない為の自衛手段だった。敵を作ると対照的な人間として目の前に映り出して自分がどんな思考なのか結果的に知ることができた。でもそれでは不健康過ぎる。

単に子供を捨てるという事ではなく、印象が育ち切る前の情報を分けて、自分が子供を忘れないように大事にしてる意見が論理というカテゴリーならそれを捨てて良いのではないか?大人になるか子供になるかという区切りを完全に消して子供的な思考の一部を子供的に捨てる事が可能なら、適切に成長できるのではないかと思った。


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指向性のある精神的な領域を世界としたものについて、その世界に行くにはある程度の偶然性がないと難しい。普段深く潜っている世界を忘れさせるくらいの空気、脈絡の無さ、どんな物事にも入り口はある。その入り口をはじめから探す事はできないが、結局全部繋がってて、入り口はこれだったというものが今まで沢山あった。ただ、世界によっては特定の世界に行きづらく、それが狭くなっているものがある。

この1年間、大人が嫌いというテーマを意識的に生んできた。それは純粋な心を純粋な心としてカテゴライズできていなかった不足によるもので、俺は上の世代の思想が、自分には想像でしかなくて面白く感じているのではないかと思った。その世代にしか分からないことは必ずある。それを自分は表面的なものだけ切り出して、単純なものとして認識してしまっているのではないか?その時を生きてた人の気持ちとか少しずつ忘れられていって、形には残るけどもう分からなくなったものは無数にあるんじゃないかと感じた。

自分の力だけで解決できる事はごく僅かで、その僅かが自分の中だけで起きている気がした。俺はバカなのは間違いない。情報が多過ぎて毎日何が起きてるか収拾が付かない。毎日自分の周りで起きている事は、複雑で、でもとても小さな事で、変わったとしてもまた違った問題をすぐに見つけてくる。同じ場所を歩き回ってるだけな気がする。分からないことが分からないことが分からないことが分からないみたいな、世間はいつもそんな感じのアプローチで人を動かすけど、俺もそうだった。


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ブロッコリーとズッキーニのやけに緑な和風パスタを作ったけど、そんなに美味しくならなかった。でも食う直前までの雰囲気は結構良くて、なんかそういえばパスタ食べる前ってあの時はこんなテンションだったって思い出した。ものすごく久しぶりにフライパンを使った気がする。

イタリアンでバイトしてた頃、その店のメニューにあるパスタは全てが絶妙に良くて、それを今の今まで完全に忘れてた。いつもアホ忙しくて特に年末は今思い出してもイラっとするくらいクソ覚えてるけど、でも楽しかった。ここの人達は時間と戦ってんだみたいな印象で、ソースの火を止める時間だのパスタを移してからパンを上げるまでの時間だの、少し狂えば味がまるで変わってくるから、今何がどうなっていて、誰が何をやるかそれぞれが色んなタイミングで見極めて・・っていうのをクソ真面目に俺もやっていた。売れ残ったケーキを食べさせてもらえるからいつも締めまで残ってて、忙しい時間は誰かが日替わりでキレてたけど嫌いと思う人はマジでいなかった。みんな元気にしてるかな?そういえばサボった事一回も無いわ。いやこれが一番ヤバい。サボった事ないってすごくないか?

でも何をどうすれば美味しくなるかは分かるけど、なぜそれをそうするのかは考えてこなかった。野菜を茹でるでもなくグリルでもなくオーブンを使うのは何故か、サバでもマグロでもなくイワシなのは何故か当時考えてこなかったから今作ったこれは美味しくならなかったんだろうが、でも今の感情には無いような、環境が好きというものが全部をいい思い出にしているなら今どこにいても成長ばかりに拘っている自分はあの頃に比べて確実にショボい奴になった。


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ものを入れるという発想をした時、入るものだけを入れる、形状を変える事で入る、入れ物を変えるという考え方もある。入らなかったものはどうなるのか?形を変えるとはどんな意味を持つのか?事象には必ず物語が存在して、それに包まれているものを考え始めるせいで物体そのものに意味が無いように思えてしまう距離感にいる事がある。自分の事は絶対に誰にも分からないが、それはきっとみんな同じで、最後まで誰のことも完全には分からないんだと思ったら辛かったけど霧が晴れたみたいにスッキリした。

自分の言語がいつまで経ってもしょうもないのは、こうするのは良くなかったと判断して修正するにも結局自分が起こした波の中で泳いでいるだけで、やらなかった事とか思わなかった事が情報としてカウントされなくて世界が狭い状況がずっと続いていたからと考えた。土台を変える方法は正確には分からないが、自分の何が分かっていて何が分かっていないか探してみることにした。



自分が学びとして手に入れやすいものは、劣情に介されているのではないかと思った。自分を含める人間を相手して反面教師的な視点の教育を反射的にやってきた自覚はある。不快な状態を取り除く為のスタンダードな感覚は生きる上で必要だという思想が根強くある。ただ、自分が誠実であれば多くの人はそれを受け入れてくれるという実感が今ある中で、この劣情がどれだけ空間を動かして変えてきたかは全くもって分からないというのが正直なところではあった。何か物事に対して自分を納得させる理由は楽に生成できるが、それはパフォーマンスを如何にして出すかという視点の欠落に繋がってくる現実がある。

3DCGアニメーションで個人的に重要視していたのが、違和感の排除である。これをするには表現に確実性があるかの課題になるが、仮にファーストフレームの時点でそれまでのカットもしくは特定モーションからの遷移が必要とされておりエンドまでに着地点があるとして、流れで何故こうなるのかという画面の納得を得る為の説明として理論化する必要があると考えるのが確実性の意味になるが、これを3D的な観点として、モデルの存在により作画としてキャラクターを描画しない・フレームそのものの削除が不可能(流れる時間に対して絵の枚数に変動がない)・XYZ軸という概念を仮想的なものではなく数値として利用する等がある。 作品をやります、演出はこうです、動き作りますとなった時に制約が多く感じるのは当然の感想で、この中でどれだけやれるかという思考は至って普通だった。

しかしこのような、確定しているものを並べるだけの思考で取り組むとしたら、仕事は上手くなるけど腕は大して良くならないというか、最近ボーボボを読み返して思ったのが、画面が面白いという事を追求するにあたり画としての流れは断っても多面的な視点から脈略があれば成立するという発見があり、自身の行動を決定する理由がリズムや法則で大部分を占めていると、その時点での自分の100点の基準が下がる事に気付いた。可能性をはじめから潰して思考すると長期的な成長が見込めなくなるというのを、地でやっていた。

今も格ゲーの観戦は欠かさずやっていて、"できてない事はまだ沢山ある"とキャラのプロフェッショナルがどのタイトルの人間だとしても口を揃えて言うことが、そのキャラを奥深くまで理解しているからであると最近やっと分かった。アニメーションは、どれだけ状況が縛られていようが、3Dだろうが2Dだろうが表現としてそもそもやれる事がほぼ無限にある分野で、その中で少しでも窮屈さを感じるのは自分の理解度が低過ぎるからだった。



今後の課題としては、日常で状況的にスルーしてしまっているもの、本来考える必要性のないものについて感情か意見か感想か何かしらを持つことで、これの訓練として例えば夜道のド真ん中を爆走しているゴキブリに対してできるだけ多くの反応を持つとか、パイナップルの皮を剥く時に"皮は食ってもおいしくないから剥く"以上の情報を手に入れるとか、今よりも数千倍ピュアにならなければいけない。ただ見ていただけの瞬間とか、忘れようとして忘れた記憶とかあるけど、流れている時間をただ食うだけじゃなくて味わえられたら、生命力は上がると思った。