話を聞いてはならない人たち


教団の信者たちは意見を求めてはいなかった。
普通だけど普通じゃない。幼い頃の価値観は親の存在そのものであるという常識が際立って見えていたのは、文字通り別世界に住んでいるような雰囲気が漂っていたからで、居場所があるという信心よりも彼らには社会からある程度隔離されている自覚と常識という類において逸脱した存在ではないという謙虚さがその立場の必然性を感じさせていたからだろう。

もしそうでなくとも誰もが思うのは彼ら中心で回る世界は狭すぎるということである。ルールとはまた別の法律のようなものがもうひとつ形成される中で矛盾とギャップの水平区間に介入することなく生きなければならないのは、閉鎖的になることを初めから推奨されているようであまりに不憫に思えたが、彼が宣教師になりたいという素志を抱いていたことを知った日からは何も言えなくなっていた。

一般世間との距離を垣間見ながら受け入れるシーンにおいては客観的に見てしまえばこちら側としては都合が良く、表では周りに合わせようがある程度は許容したいと本心で感じている人間もいるだろう。生活の中で宗教に身を寄せる人たち対してほぼ無条件で好意的な感情を持つようになったプロットが完成されつつあった前に、大局的に社会不適合者の烙印を押されるプロセスが重要だと何の感慨もなく言い切ったある「同類」の存在がこれを肯定できなくしていた。


社会への反抗心から自らが宗教化してしまった人物の最期はあっけなかったが、彼には超然とした精神が常に備わっていた。
彼の行動の因果はいくら考えたとしても理解の外であったと前置きしておくが宗教を利用して宗教を作り上げて飯を食っていたことくらいは分かる、行動が何であろうと経験の説得力は時代そのものであり頭のネジがしっかり留まっている確信があったからこその人間としての認識、信頼の理由、他人と比べられるだけの正当性があった。正しく世間を知らない子供に放つ言葉には直感で傍受させる力が必ずあった。

彼は、社会が間違っていると突き放しながら自らが社会不適合者であることを自覚し、国も世代も超えた流れ者と共に暮らしていた。ただ簡潔に反抗心の裏返しではないとは感じてもそれ以上は分からない。いかなる童心を利用するなれば憎むべき相手ではあるものの、理想を掲げる熱い心は「教団の信者たち」とは一線を画すものだと感じてしまった。

ただ、セーフスペースから一歩踏み出してみればどこだろうがそこにいる人類はほぼ敵だということを彼は知っていたのだろうか。ほんのくだらない理由と少しの暴力で彼の積み上げてきた量り知れない努力と知識と小さな社会空間は一瞬でこの世から消えた。その報告と言い訳を電話越しに話していた仲間の会話は聞こえなかったが、その様子はいつまでも滑稽だった。彼らは最初から対話は必要としていなかった。


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偏見は持って欲しくないと、些細な選択がある度に諭されるのは悔しい。その言葉を発した後に返答がないことについて価値を有した瞬間の自信が秘められているだろうとの嫌な確信はあるが、それでも脳内でそいつの人間性を否定してやることしか本能的に有り得なくなっていたのは、何を優先すればいいか分からなくなったからというものがある。単に言葉の重みを感じるか、存在そのものに説得力があるか、人間性を考慮するか、気分の巡り合わせでその場の思考がどうなろうが後で簡単に順序が逆転する。

似てようが似てなかろうが人生がどうにかなった事実を明確に自覚していたとして、何故どいつもこいつも主観性しかない、量りようのない程度で勝負したがるのか。イジメられた、虐待を受けた、家族が居ない…彼らが想像の限界を超える程に非日常を地で往く生活を送っていたと思うとあれこれと考慮しなければならないのは至極当然のことだが、それを盾に張り合った瞬間そいつは最悪の人間になる。自分が何をしてもいいと本気で思っている人間同士が、互いに嫌っている。ありもしない理解者を探し回り、たった一つの言葉やほんの少しの行動を時間が経つに連れ徐々に神格化していく人間の押し付ける価値観は常識から離れ過ぎている。

彼らも、信者も助言は必要としていない。だが信者には共通思想を掲げた仲間がいる。それが嘘でも幸せに暮らせる家族がいる。辛い過去があったからと簡単に放免できていいのかとかいうクッソくだらねえ疑問が常に付きまとうのは、「彼には何かが必要だった」と言ってしまえば全て終わりなのを分かっているからだ。