万物を受け入れる器


財布が空なのに笑顔でうどん食ってたり、父親の再婚相手の娘がアイドルで陽キャだからという理由で安易に帰省したくなかったり、銀行のハンコが入れっぱなしのままのズボンを返品したりしてなお平然と生きていられる社会があっても、俺はまだ上手く立ち回れるなんて期待が常にある。
だが、どんな功績を挙げようが、何より優越感が勝ろうが、必ず最後には俺はゴミであるということを忘れてはならない。人より地頭が悪く、人より継続する力がなく、人より空気を読めず、人より浪費癖があって、人より学歴が低くて、人より自慰の数が多くて、この世に有能がいて俺は無能であることを俺は絶対に忘れてはならない。

生きやすいから狭い世の中がある。誰も捕まえないのに俺はまた逃げようとしている。
人間の持つ自信は引き算の結果であるという話がある。テストの点数が低くとも自分が他より優れているとずっと思っていたあの頃の自信は中学生くらいでグチャグチャに丸め込まれたが、この歳になって未だ自分が世界の中心だと思い込んでいる奴がいるとすれば、それはそいつが正しい。


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子供が子供を騙すという思い込みで、"大人でも楽しめる"という安易なセールスが実は大人の常套句だったのが衝撃的だった数年前のショックだが、何故人が子を授かりたがるかがよく分かるようになった。

埋没費用なんてものを考えた事があっただろうか、常識をある程度身に付けなければいけない中で、前提を知らない地点というのが奇想天外な発想に繋がるわけで、発想という点では子供には戻れないという話を聞いて諦めがついた。無条件で吹き込みたがる大人からいつの間にか自分がその対象から外れていたと気が付いた時、大人が持つイメージと期待について、純真さや子供の興味への興味なんだろうとその時は考えていた。
確かにゴミカスみたいな大人ばかりだけどクズ野郎は居ない。弾圧されて生きてきたような大人の口は異様なまでに固い。

マジョリティーの正当性を盾とするのではなく、私と組織という構造で考えた方が否定一辺倒の主張で戦うよりも長期的に得をするということを知るべきだった。友達に昔読ませてもらった「キャラ化する/される子どもたち」という本のことを今もたまに思い出すのだが、学校内でキャラという評価経済の賜物が持つ権力というものが権力として当たり前だった。
だが多くの大人には仲間が居ない。万物を受け入れる器なんてものは存在せず、仕事も人間関係も妥協しながら同じ空間に平然と居座っている。


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一年前、話を聞きに行ったある企業の人間が「ソシャゲで課金してる人いる?手挙げて・・今挙がった人はこの業界向いてるからがんばってね、課金しないとゲームの良さなんて分かったもんじゃないからね、面接来る人も課金してる人かどうかで印象変わるから」なんてブッ込んだ奴をその場で殴りたくなるくらい腹が立ったことがあって、どこのどいつがガチャとか何とかでこの業界クソつまんなくしてんだか分かってんのかって、意識高い熟語並べただけの内容スッカスカ自己満講演よりはある意味勉強にはなったけど血の気が引いて上る瞬間をその場で実感するくらいのインパクトはあった。
自分達が気合入れて作ったものがガチャで当てるまでは届かないと改めて言葉にすると確かに嫌なところではあるが、今言えるのは体制なんてマニュアル通り動けばいいだけで顧客の事なんか真面目に考えてる奴なんて居ない。みんな潰れかけのパチンコ屋の店長みたいなテンションで毟り取る事しか考えてない。

商品センターでバイトしていた時、俺が叱られてまくっている目の前でパートのオバサンがミスっているのを、たぶん目線のやり場として、俺たちは見ていた。だがその後パートのオバサンへのお咎めはナシだった。理由はすぐに分かった。40や50の、自分と同じかそれ以上の年齢を重ねた人間に俺を怒った時と同じトーンで話すのが面倒だからだ。
俺はこの時、ある種許されていた。同世代の人間に「君のためを思って言っているんだよ」アンチは一定数存在するが、そんな奴らブチ殺して俺はもう、俺を叱ってくれる人を聖人君主と思うしかない。目の前の大人を必要悪なのか老害なのか何なのか考える時間は今はもう与えられていない。