めんどくさい話


男同士で結婚しようが犬や猫と結婚しようがエッフェル塔と結婚しようが、ハハッめでてえなくらいできっとみんな幸せになれる。まあ自分の子供が居るという妄想をしたとしてそいつが2次元のキャラと結婚するから式挙げる手伝いしてくれと言われたら気絶する自信はあるが、結局他人事だから、人間の尊厳に関わるからギャーギャー騒げるのはこの社会の話題として優秀過ぎるという嫌味はある。この流れでいくら男性だ女性だアジア人だと自分を差別の対象に追加できようが、その差別するバカをダシにして自分まで可哀想な存在に仕立て上げる時点で話は少しも進まない。というかそもそもこの手の話をする人間は話を進めるつもりがないと思う。そら差別発言した奴がブッ叩かれるのは当然だけど、これほど世間の無関係の人間同士で取り沙汰しても困るのは自分だけなんじゃないだろうか。俺は今その無関係の人間同士を取り沙汰してこうして困っている。


どいつもこいつも口を開けば差別差別、差別差別差別のオンパレードで頭がおかしくなる。インターネットなんてクソどうでもいい、おかしいのは社会問題を人間の目を見て発言する奴があまりに多いことである。企業も大人も同い年の奴らも何をアピールしたがるのか。いくらジャンルは絞っていようが差別という言葉の擁する不特定多数の名前も顔も知らん存在によく汚ねえ正義紛いの正論もどきを目の前の奴に余裕ぶっこいた顔で披露できると思う。知ったこっちゃねえよ。俺に何の用だよ。同意でもない、ただ意見する自分への称賛しか求めてないんじゃないか。そんなに好きかよこいつら。訳がわからない。みんな腹の底はそんなくだらねえ事で一々感情爆発させてんのか。小さい頃は誰もそんな話してくれなかった。話が1%でも分かる年齢になった俺が悪いか、俺はいつまでも逃げ続けるぞ。


優しいホームレス、清掃員の過去、水商売の敵、照準はほんの一部、ほんの一人でも耳に入れる人間にとっては完全なエリア、レッテルの塊と概念、何が逸話やクソが、ホームレスだろうが頭ブッ壊れた奴もいればまともな奴もいるに決まってんだろうが、ゲームに負けて台パンして叫んでる大学生も警察の前で小麦粉落として全力ダッシュする動画配信者も太鼓叩きながらナントカ反対ってクソでけえ声で歌ってるジジイも毎日夕方5時に人の庭で犬の糞させるババアも、俺の中では等しく人間として終わってんだよ。こんな奴らを見聞きする度に嫌になる頭の中が、これが差別野郎ってんならきっとそうなんだろうが、いつだって社会的地位はそいつの人間性そのもので各々から決定され、決定するべきなんじゃないか。世間の風潮やら評価なんかで判断したつもりで腫れ物に触れるような態度見せたらその時点でそいつは人間として終わりだと思う。こちとらホモでもレズでも頭スッカラカンにして娯楽や人間に触れてるのに何の事情か突然社会問題ブチ込まれてもヒエヒエのヒエである。

俺が嫌いなのは男でも女でもカマでもなく、ギャラルホルンを名乗る身ならばこのモビルスーツがどのような意味を持つかは理解できるだろうと言わんばかりのドヤ顔で嘔吐物を披露する中正を装った自己愛我欲迷妄不躾野郎に間違いない。
たぶん社会の底辺っていうのは経済的にでも文化的にでもなく、ただ努力のしてこなかった人間の集まる場所、俺が今いる場所のことなんだと割と本気で思う。こいつらはもう大人になった気分でいる。酒飲んでチ◯ポ振り回す程度のものは最早ただの通過儀礼、自分が大人として対等に大人に意見すべきであると、今この瞬間子供として人生得しまくってる癖に思想だけ大人に加わりたいと、そういった意味で社会の底辺に足がついているんだと、ある程度の受動的な心理から危機管理の自意識が逆に危険な方向へ走らせてしまうおかしさが、現実に並行しながら追いかけ続ける利己主義の、認知的不協和の滑稽さをより加速させているんじゃないかと、根付いた規範の中心に自分が居るべきだという欲に気付かずに自分が良い人だと思い込んでしまうところは誰にでもあるんじゃないかとぶっちゃけ感じる。


大人だってそうだ。身体が小さい頃はそいつがどんな経歴でどんな性格だろうが、自分より図体がデカいだけで大人はみんな偉い人間に見えていた。当然違う。どいつもこいつも悟ったような口を、大人になってから大人の気持ちが分かるようになったじゃねえよ。子供の頃の感情を忘れてるだけだろうが。でも普段家族は言わないような事を選んではペラペラ喋る大人が、内容はどうであれ自分にはとてつもなく有難いのは間違いない。そこには教えるという気持ちがあるかどうかの違いがあるが大人は確かにいい事は言う。でもツイッターで"いい言葉"をひたすらリツイートするような大人は嫌だ。得体の知れない奴の"いい言葉"っていうものをただ傍受していつか身動きが取れなくなるのを恐れるべきだ。この人達は目の前に現れた人間の、人間性ではなく社会性そのものに興味があるのではないか。大人だから大人になる為だからと自動的に先進的に精神が形成されていくと勘違いしてるのではないか。
この人たちはみな大人になってからインターネットというコンテンツに触れている。現実より緊張感がないという意味で脱却したところにインターネットコミュニティがあったとしてブッ飛んだコンテンツや非日常、才能そのものというより人間の適当な無関心の本音が共感を産みたがらない場所としての魅力、瓶に白紙の手紙を詰めて何処かへすっ飛ばした空っぽの理が自分の字で書かれていつの間にか手元に戻ってきている馬鹿馬鹿しさが語る人格の曖昧さが面白いと感じることはかなりある。
しかしここで常に生み出されようとする観念は強者と弱者という単純なもので、どんな分野内でも地位が確立されている自覚があるという現実の強い感情を持つ人間が、これの為にひとつの手段としてインターネットを利用しているのではないかと思った。
良心的な部分で言うと、相手に理解して貰いたいという欲の証明が、他人の発した言葉が正しいかどうかではなく自分の信じた言葉が正しいかどうかという攻撃的な側面に変貌を遂げて、まさにその時、自分ひとりが「ある集団」の中心だと錯覚した上で総意と自惚れてしまう結局の既存カテゴリーのハマり具合がすれ違って絶対的な存在を守るかダシに使うかのすり替わりがある。これが外部からは見えにくいせいでその者の言葉を真に受けてしまうし不快に思った者が同じ経路を辿りやすいのはあると感じる。匿名の文字という対等なツールに憧れたことを自覚せずに、自己を対等な位置に置いて発言する裏返しで他人を蔑み易いという事実は割とあるんじゃないかと思う。
正論、正論に対する正論、どちらが屁理屈かなんてどうでもいいが、その中でなお輝き続ける正論という救いあるいは暴力は、社会のルールとして人間の中にあるべきだという共通認識が強いもの、良くも悪くも正しく量れない何かが宿るとして、俺には学がないから証明のしようがないが、きっと物事には端っこがあると信じている。人間の思想も永遠に続いて受け継がれている訳がないだろうと勝手に思っている。どんな思想であろうが、それを中心に風潮というものが作られていくんじゃないか。


話が逸れまくったが、この先大人とかいう曖昧過ぎる枠に取り込まれたくない。男か女か、国か肌の色かで差別用語が生まれてる世の中で大人と子供という言葉には差別的な要素が一切含まれていないのはあまりにも不思議で、寧ろありがたい話でもある。

一瞬でも抱いた妬みの感情から解放されずに、どこか別の場所で自分ひとりだけで満足感を得てしまった時、何も気付かないまま斜めにおかしな人間になっていくことを恐れなければ、一定の期間で出し続けた満足感の集合体が強制的にプロセスの相対性を鑑みた、自己存在意義であると他人から思われるよう付け上がった時に、個性だ多様性だと手にしたばかりの感情を信じきってしまう馬鹿に気付くことはない。
自分の利用したものに呑まれ過ぎた人間というか、わかりやすい話オタクになる以前と以後の同じ女の子への反応の違いと同じようなもので、いわゆるそれが良識かどうかは置いといてスタンダードな世間の印象という建前を履き違えたら、常に付きまとう後ろめたさの方向がどんどん変わってしまうんじゃないか。

残念な事に今年で20になってしまうが、永遠に子供のままでいたい、よくある大人として子供心を忘れないでいたいとかいう加減のいいものではなく、これからも生意気で身勝手でミルク臭い子供でいようと思う。でも頼むから親の介護受けるって意味で子供のままでいないでくれ。 2年後実家でゲーム三昧しながら親の脛しゃぶってたらいい大人が何してんだっていうテンプレ投げ付けながら殺しに行くから。