ゆるい思想

脳ミソからケツまでイった男の雑記

マルチなトリプル

「これはこれでいいけど、こっちもできるようにして」
しかし、相対的な価値は与えられるものではない、情報としての満足の尺度は一体どこから来るのか、それは多様性の証明である。あくまで想像の「さわり」ではカオス理論(すっとぼけ)的なもので錯誤される期待は、いつしか価値の決定の瞬間がもたらされた時に固まるものである。何を当然のことをと思うが、事実確認すると共に、現代において求められていることはひとつであり、ひとつでない。

そのひとつとして、謝罪がある。謝罪というものは社会において相手方に示す態度であり、自身の地位を維持するための行為、または意思表示である。謝罪とは、反省ではない。反省は行動であり、行動は謝罪ではない。そして、これを進化と呼ぶか末路と呼ぶかを誰かが決めた時、決まって金魚の糞のようにくっついてくるのが後付けの「根拠」であり、それでいて価値の変わらないものが、はじめて社会的な地位を有している証明となる。そして根拠のない共感で価値を失いがちなのが「言葉」である。

この「態度」と「言葉」が「行動」に直結している当たり前の事実を、最近まで理解できなかったので、こんな書き方をした。
態度と言葉を失った人間、もしくは、これらを信用していない人間というのは、割と世の中にいる。人間の内的なノウハウの程度とか、経験とかいう話ではないことは伝えたい。チンコが右曲がりの奴は天才とかそういう話は好きだけども。

ここで悲しかったのが、自分の考えははっきりと言う、といった意見はゴミに等しいと痛感したことである。何が左右するのかを介さない空間はどこにもない、もちろん社会組織に属する上で何らかの目標が存在する場合はまた別の問題となる。
ダメな人間は、何を言ってもダメ。思い返せば、他人の正論なんてクソ程にも有り難いと感じたことは一度たりともない。俺という人間、拒むことを知らない種壺精神には自信を持っているが、結局こういう人間は言葉を発すれば発するほど価値がどんどん落ちていくことを知らなかった。自身の行動に対して理由がついてこない事を本能と呼ぶにはあまりにも簡潔過ぎて納得がいかない時に、ただ相手に与えていると思っていた情報が社会という空間を通されていることを知らなかった。