両刀論法


幼稚園児や小学生が当たり前のようにインターネットでの出来事を話題にしていることに親近感、あるいは妬みや羨望を強く感じるものだが、これらは大人もいつしか同じことを思ったかもしれなくて、同じ社会に生きる者として自分との同一性という期待をかけてきていることは先の「インターネットが生まれた頃にはもうあった人間」に親近感を覚えることと同じで、たった10年違うだけの人間にかける想いはあっても、それを感受する側は煙たいとはね除けてしまうことを自分が証明してしまった。
大人からの褒め言葉は人間性の肯定にはならない、寧ろ「嫌な出来事も含めて」もっと経験したかったという大人が自らへの環境を否定しているものだと解釈した時に、とても褒められているものではないと感じたなら、時代として簡潔に答えが出た時にも、抱いた感情は途切れないという非可逆的なものはこの先信じたいものではある。
それでも、「やりたい事があるなんて羨ましい」と言われた時には何て言えばいいか分からなかった。30代、40代の人が自分という10代の人間のどの部分とどう照らし合わせて喋っているかも分からないが、この時点で何か潰されそうになったのは、こんな落ちこぼれの人間を見て自分への後ろめたさを感じないで欲しいと腹を立てたからである。どうも、こんな奴でもやり通す意思があるのかと過去の自分の落ち度を責めているように見えて異様に悲しくなる。
「大人が」大人や子供を定義付けるのは糞を撒き散らす程この世で一番嫌いだけど、わざわざ感情を取りに来る価値が良くも悪くもあるんなら、提示できているという証明が自然的にされている事になる。自分の理解が及ばない事柄についてそれを可能性と呼ぶか否定の意思を示すかなら大いに賛同したいが、都合の良いものを言葉で説明せずに嬉しく思うなら疑問の上で破壊したい。

このブログでも散々書いてきたけど自己欺瞞を自覚しながら正当性を確保しようとする自分とその過程における矛盾が嫌いな訳はなく、「一般的に」違うんだよ、逆でもそう、たかが個人から通俗的なものを感じるなというどこからかの言葉を常に警告されることに嫌気がさしているから、個人の尊重が対置された時に愛想つかしてケツを振る。

これを読んで「被害妄想」「楽観的になれよ」と思われたとして、そんなもの何の指摘にも慰めにもならない。個人の前に社会的地位として裁かれた重さが認識の中に存在するなら、抽象的な規範と同時に上から目線で定義付けられる共通意識はブッ壊していきたいと思う。



余談

あっという間に一週間が経ち、また2人だけの生活に戻った。
勿論手厚く歓迎しようという気持ち以外有り得なかったが、この家に他人を住まわせるという行為はどうも落ち着かなく、人間として保守的にものを所有するという欲を掻き立たせ無意識の内に高圧的な態度をとっていたせいか、何か一緒にやる時に露骨に嫌な顔をされていたが、最後の2,3日はお互いストレスフリーに生活出来ていたと思う。一週間という長くも短くもない期間に救われた。
無計画な父親に腹を立てまくっていたのでまあ邪魔な存在でしかなかっただろうけど、これも含め正直反省する点があり過ぎる。呼応とか抜かしたが考える暇も無かった。