懺悔タイム4


嘘だ。「嘘は滅多につかないと言いたい訳でもなく、具体的な現実ではなく無意識的な感情」なんて立派な嘘。実際は嘘をつきまくる本物のクズ野郎、ただ見栄を張りたいだけの、焦燥感ひとつで行動し、生きている人間。
善も悪も構わず正直過ぎる人たちを間近で見て真に感じたのは、紛れもなくこの俺が嘘つき人間であるということ、この前書いた「行動原理」、自分が嘘つき人間であることの証明を踏みとどまって誤魔化した。それを説明しても今はまだ、これとこれについては事実と一々弁明したい自分が確かに存在しているのはとんでもなく憐れで、クソクソクソクソオブクソ。
最近妙にリアリティを感じられなかったというか、これまでやってきた事はもはや他人事のような気がしていたのは風情もクソもなくそこに対置されていたからだ。何もかも中途半端な文を書いてきたのは捻りもなく現実から逃げたかったからだと理解した。
他人が嘘をつき始めればすぐに分かる。「まーたその場しのぎに話作ってるよ」こんな思いが、自分にも当然のように向けられていることに何故気が付かなかったのか。本物とされた嘘が年月を超えてやって来た時、もの凄く惨めな気持ちになった。それは、周知の事実として完成しきっていることに腹を立て、ただ肯定する。あるいは、既に見抜かれていたのだろうかと思い、どうしようもなく互譲を見る思いで応答する以外に選択肢が与えられなかった。相手が本気なのに、対してはこの有様、あまりにも酷い。大した話じゃない、そんな事は分かりきっているが、敗北感というか、見下されているというか、ただ申し訳ない気持ちで一杯だった。
半年前、一番付き合いの古い友人とこれでもかと腹を割りまくる機会があった。初めてだった。日が落ちる前の小学校の校庭で、感情をそのままに話し、ただひたすら謝罪と賞賛を繰り返し、深夜を回り親から電話が掛かってくるまで時間を忘れて話していた。そこには嘘なんてひとつもなく、高め合おうという意識もなく、2人の間にあった出来事で認知していたもの、していなかったものとその相違を互いに確認した。自宅に着いてベッドになだれ込んだ瞬間の満足感、後ろめたい気持ちのなさ、一種の勝利感は懐かしいものがあった。
その勝利感は母親を言い負かして部屋に籠らせた後、自室に戻り、なぞるように自分の発した言葉を思い出して悦に浸る瞬間のあの感情と似ていた。久しぶりだった。日常的に行われた喧嘩の中で原因は見事にひとつも覚えていないが、既成事実の塗り合いが必ずあったこと、結果の先にあった勝利感、敗北感は鮮明に覚えている。そのうちの片方が物理的に震える事無く、それも事実の塗り合いだけでやって来たのは快感だった。意義や証明の過程として「母親を言い負かし」ていたあの時の行動、母親がついに出て行った後は自己の正しさを証明する手立てをついに失い、どんな人間であるかサッパリ分からなくなっていた時に同じ感情を抱いたのは、友人との間にあった会話の正しさを証明する前に、母親との間にあった喧嘩の正しさも結果的に証明してしまった。
それからは、これまで行ってきたことに対しての絶対的で必然性も秘めていた嫌悪感が消え始め、時間は何も解決してくれないと思っていた正しささえも消え、本当に時間は忘れさせるものだと悲しく思いながらまるで美談のように贖罪のつもりで反省を文字に書き起こせる自分は一枚岩ではなく、二枚舌でもあると惚れていた。その結果として12月の記事で「相対的に見なくともここ数ヶ月はいい生活を送れてると言える」などと最悪の思い込みが言葉として出た。全ては自分が招いた嘘だったことをやっと今理解した。愚かすぎる。

もう正直に生きたい。道徳的な堕落なんて常に起こっていた。後悔しかない。心機一転とかほざく前に甘えた人生の汚点を洗い出して、それからやっと、金使って、金稼いで、アニメ観て、ゲームして、友達と遊んで、美味しいもの食べたい。