価値のないもの


知った味を食って食らって、アニメゲーム映画漬けの毎日、外に出ているのは自主的なものとは言い難い。それを繰り返すこの生活を気に入ってしまっている。ボヤボヤしてると後ろからバッサリな世界にほっぽり出されてギリギリを生き延びたいと思っていたあの頃の自分はどこへ行ったか知らんが、小学生の頃に描いていたニートよりもなりたくなかった実家暮らしのフリーターという将来がすぐそこに来ている。
しかしそこに当てはまる人たちは、みな嬉しそうに身の上話をしてくれる。面白いことに、仕事と生活が同列で、マイペースに見える。同じ歳でも家庭を持つ人は、どことなく切羽詰まっているというか、何か使命感に追われているように感じる。どうしたものかその人を羨ましいとは思わない時点で人間的なものや夢をここで示さなければいけないのは当然だが、どうして動けないのか。

相対的に見なくとも、ここ数ヶ月は確実にいい生活を送れていると言える。どっちにしろこのまま冬を乗り越える足となればこれ以上良いことはない。ただ投げ出したいという気持ちは、何かの助けになるのだろうか。これほど恵まれた個体が、関わるもの全てに放っておいてくれと言っている。矛盾が楽しいと生意気に言っていたクソガキが、繊細さの欠片もなく整合を取ろうとしている。昔に戻りたいなんて中身のないゴミのような感情が湧いてくる。例えリアルとは呼びたくなくともほぼ完璧にやってるつもりではいても、本能が怯えるなら、劣化部分が適合という形で成形されていくのが分かるなら実際そこは自分が最適に生きていける場所だと思う。ものの大きさで高低差は変わらないと言いたい訳じゃない。ただ絶対にそこはリアルではないと言いたい自分がどこまで持つか。要は課せられるものを現実と言って受容出来るかどうか、ここに懸ける気持ちは人一倍でなくてはならない。
反面、リアルかそうでなくとも二分化したがる自分をもっと面白がりたいと切実に思う。人間の本質なんてものに当てはまっていく様がどうもイラついてしょうがないが、ここまでで得たものを頼りに、レベルの低い自己完結を塗る覚悟を決めなければいけない。

猶予を延ばそうとすれば破滅する。何故だか知らんが確実に破滅できる自信はある。しかし都合の良いこと悪いことをやり過ごした数が多すぎるこの町で消化されることなく過ごしたいというのは紛うことなき本意で、モラル、保身すら気にする必要のない空間がここに完成しているなら、プロセスと結果に意味を求めてはいけない。甘えでも何でもないものを卑下と罵って、また繰り上がる感情を一生続けるつもりならそれはそれでいいんじゃないか。

ひとり歩きしているただの言葉が、どれだけ意味をもたらさないか。こんなものを理解したところで、あらゆるものの上下関係が人間の中ではなく間に存在しているか、していないかは考えたくも聞きたくもない。放ったらかしだとしても常軌を逸した存在を目の当たりにした時に、一番最初に受け取った感情が恐怖であることを覚えている。これが本能なら、とっくに弱い人間だと証明されている。関わってはいけない、潰される、早く逃げたい…あの恐怖があったからこそ、今があるとこんなにも安っぽく一言で表現できてしまうが、客観視したならば絶対に見ることのできない、人生の因果が交通事故を起こした瞬間など、記録もせずに生きてきたこと、無駄ではなかったいう証拠がないならば自分は今ここで文句を言い、言われ続けなければならないのか。人間なんて自然の摂理と何の関係もないとしても、自分を殺しにくる人間が一人くらいは居てもいいのではないか。

偶然か必然かすら理解の及ばない、あの感情、言葉、可能性、思い返せば自分がどれだけ自堕落で生産性のない人生を送ってきたか、その結果として現れたシチュエーション、どうしてこんなにも分かり易くやってくるのだろうか。死にたい、死にたいと意味もなく誰かを探しに街へ駆け出したあの日々、今じゃ自分にすら理解されなくて、薄っぺらい。褒めるところがあるとすれば、よく死ななかったという事だけ、あそこまで自分を追い込んだ非日常が、もっと決定的な不幸、不条理へ導いて欲しいと願う異常なまでの薬へと変化させていったのは、誰のせいなんだろうか。

ある時は「してはいけないこと」を堂々と披露し、数秒前まで普通に接していた人間にも拒絶され、誰が正しかろうが社会で生きていくには自分の頭ではあまりにも不十分と思い知った日もあるにはあった。いや何もかも言葉のまま受け取らないで欲しい、俺は悪くない。和解する努力はしたんだよ、話を聞けばきっと納得出来るだろう…いくらでも弁明の言葉は出てくる程に、憎たらしい思い出ではある筈なのに、奴を言い負かす妄想を数え切れないくらい繰り返してきたのに、誰が見ても明らかに人生の分岐点だったというのに、思い出したところで何も感じない。
どうして感情的になれないか、ずっと考えてきた。それは偶然にもアドバンテージを生み出した、正確にはアドバンテージを生み出したと思っているからだ。あの頃の自分とは違う、あれは本当の自分じゃない、そんなことを無意識に感じているのだと、やっと気付いた。自分の事なんて知りもしないから日常的なあらゆる物事と行動に、どれが本心で本物なのか、偽物なのか模索しながら矛盾と因果を疑問の上に割り当てている。さっきまでこれを個性だと思っていたものが、こんなにもアホらしい。これまで本意であるものか本意ではないものか処理する前にごっちゃごちゃに混ぜて誰の言葉も借りずに書いてきたが、実は全部借り物だったんじゃないか。

本音を言えば、嘘か誠かなんて誰も知りやしない。結局どんな感情にも、「湧いてくる」などと思いたいだけの地位、環境は確かにそこにあったんだろう。誰も分からないと悟るなら、可能性を模索される妄想をしているだけの毎日に変化は来るのだろうか。
これでもかと哀しみを乗せてここまで書いたが、読み返せば無頓着な人間にしか見えない。