懺悔タイム3


努力をしたことがないから、報われることも、報われないことも知らない。ここで言う努力は、いわば人に認められるもので、強いられたものとは根本的に違う。自分のレベルの範囲内で育ててきたものを、これが限界だと言い張るのが惨めなのは、理解しているつもりだ。
普遍的と呼ばれているものからスペシャルに、果ては逸脱した存在になりたいと誰もが思っている。ただし、先人たちの知恵と努力によって培われた、社会進出するための最も効率のいい施設を、そのような観点で振り返った時に否定できない。何の不自由もない人間が自由を謳うのは、縛られていると感じているからではなく、はなから身勝手な感情と理想を存在しないものから受け取ってきて、そいつにとって解決することのない問題に死ぬまで付き合いながら机上の理論を発信し続ける一種のマゾ野郎だからだ。そんな人たちの末裔を、この目で見てきた時に、この人たちのようにはなりたくない、とただそれだけを感じた。だから、社会のルールを否定したくない。

こんな事を思い続ければやがて、許容の枠を乗り越えて異常な思想に染まっていくのは間違いない。それでも、知らなければいけないことは絶対にあると数百年の扉をたたいて魂を感じることができなければ、つまらない人生で終わる。脳に形を認識させる前に、全ては人の為すものと頭に留めておかなければ避けることはできない身体なのだと理解した。

自己における破滅の回避方法は何なのか。知ったもんじゃないし、馬鹿馬鹿しく、さっさとひとりで解決しろと言ってやりたい。これは決してそこでしか生きられない自分を貶したかったのではない。檻は自分で作っているだけだと再確認した時に、何もできなかった自分への単なる感情を書いた。